ふうせのイラスト  かくれた歴史の発見 和歌山市編紀州の地名の由来
地名は歴史の蓄積が醸し出す独自の色彩を伴っている
地名は無形の文化財

葵 町
 昭和52年和歌山市の町名となる以前は湊の一部、一日歩兵第61連帯兵営地の南部に接した住宅地 紀州徳川家の三つ葉葵と地名の由来は期待するが定かではない

朝 日(地形)
 もと五箇ノ荘の内で、字名朝日は、この地から三田区和田まで溝渠を穿ち樋を設けていたが、 樋の地中に入ること浅いので浅樋といったのが、後朝日と書くようになった

小豆島(地形)
 地名の小豆は阿豆の借字で崩岸の義である 昔時この辺の紀の川岸崩れた為に起こる名称 であろう字内に中瀬と称する紀の川の大きい中州あり、もと浮島といい、人家十余戸畑十町  歩ほどある

網屋町(職業)
 甚太郎網家号「網谷」藩主のお舟遊びの相手

有 家(地名)
 一説に有家は今阿里江と読むが、阿良加の転訛である

有田屋町(人名)
 有田屋新九郎の屋敷のあった所 江戸初期の豪商 塩田開発の功により拝領

新 内(地形)
 昔時は安楽内、荒内などとも書いた 新内は新地の義で、もと紀の川下流下湿の地であった  のを新たに開墾したのでいう

有 功
 区名有功は明治22年町村実施に当たり、園部、六十谷の旧二村を統合して新村造成の際新 たに命名したものである

磯 脇
 この地から東南方紀の川口までの海岸は砂浜で二里ヶ浜といい、ここから西方田倉崎、加太ま  では荒磯で磯の浦という

板屋町(職業)
 板屋職人町

伊太祁曽
 旧山東荘の中心で、伊太祁曽神社を鎮座し、野上街道ここを通過している

市小路
 
もと区内の聚落三、東を宮村、西を田中村、中部を本村といった 市小路の名は古昔この所で 市を開いたからであろう

井 戸
 相坂の西に位す 字内に大師加持水という井戸があったのでこの称がある

井ノ口
 禰宜の北にあり宮堰川の堰口がここにあったのでこの地名がある

岩 橋(地形)
 栗栖の東にあり、昔時湯橋と書いた 湯は堰で、この辺に紀の川水をひく宮堰があり、堰路に 架した橋を湯橋と呼んだのが大字名となった

井 辺(人名)
 忌部郷で宮井、音浦の水利権を有し鳴神神社を祀る井辺一族

筒井洋和のイラスト 参考資料
角川地名大辞典
和歌山市史 和歌山県史人物編
紀州の伝説(角川書店)
紀州の民話
続風土記

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