とんぼのイラスト かくれた歴史の発見 和歌山市編紀州の地名の由来3
地名は歴史の蓄積が醸し出す独自の色彩を伴っている
地名は無形の文化財

岡 町
 岡はもとこの辺一帯の総称で、続日本紀聖武天皇和歌の浦御行の条に「作離宮於岡ノ東」と  あるがこれが岡である 往古はその東南の辺海にのぞみ塩を焼いたたので塩道、塩塚などの地 名が遺っている 昔時雑賀荘の一村で岡町領と称し、地域広く島崎町井原町などもこの地内  であった

小 倉
 古昔の埴崎郷の内で、中世小倉郷、小倉の荘の名起こった 今市域のちはみな名草、海部二 郡の地であるが、ひとり小倉区のみは古来那賀郡に属し、藩時小倉荘九箇村をもって小倉組 を編成し、明治22年4月町村制実施にあたり、旧小倉組所属村を合一して新村をつくり、旧荘  名とって小倉村と命名した

落 合(地形)
 別所の西南に位す 慶長検地帳には落合畑としている 西の弥津久谷と南の仏谷の水がここ に落ち合うのでこの字名起こる

雄 湊
 男之水門(紀伊水門)城水門(紀伊水門)雄水門=紀国の男之水門

貝殻町
 海の証か 貝殻がよく出てくる所

嘉家作丁(武士)
 かぎ作り 懸け作り(欠け作り)

駕 町(武士)
 5石1人扶持金2両 御駕の者居住地

片男波
 潟を無み(山部赤人) 若の浦に潮満ち来れば「潟を無み」葦辺をさして鶴鳴き渡る

加 太
 この地の旧家に向井氏あり、白鳳14年(686)ごろ役小角葛城山経歴のとき、祖先加太弾正という者がこれを迎えたので迎えの坊の名あり、代々聖護院宮支配で伽陀寺の別当職を務め、この地の山伏行所を司り、中古領主から政所職をも命ぜられたという

徒 町(武士)
 徒侍(かちざむらい)中世・近世徒歩で行列の先導を努めた侍 居住地(堀止の西南部)

金 谷(地形)
 慶長検地帳には地名を金屋と書いている、大字に鋳物師あり、鍋釜などを鋳造したのでこの名 起こる

加 納(地形)
 この地もまた紀の川河道の移動で転変甚だしきものあったらしく、小字に北島、東北島、中北  島、南島などがあるが、いづれも河中の洲渚であったのであろう

上三毛
 下三毛の東にあり

川 永
 明治22年町村制実施の時、もと田井ノ荘の内永穂、宇田森、島、神波、楠本、川辺六箇村を  統合して新村を編成し川永村と命名した

川 辺
 もとの田井の荘の南東に位し紀の川近く沿う 川辺の名は昔時この辺の大名であったが、この 地京摂往還の要路に当ったため自ら独立して一村の名とするに至ったもので慶長検地帳には 東村と記している 藩時山口里のおかれていた山口駅場はもとこの地に置かれたという

梶 取(地形)
 カンドリと訓す 続風土記いう「かんどりは古租税の名目より起これるならむ、履仲紀に校の字 及び検校の字皆加止里と訓す 加止里は下湿の地など上中下の位定めがたく其年の作毛を  校えて祖を取る、今の見取畑などというは同じ義ならん

紀 伊
 紀州、紀の国 古くは木が多かったから木の国、和同年間に好字を選び紀伊と書かせ、伊は  紀の音の響きなりと「和訓の栞」に出ている 余談:日本の古い家系は天皇家と出雲大社の千 家氏と紀州日前宮の紀氏である 紀家野の遠祖は神武東征時従った天の道根であり、伝説  神武天皇の宿の名も出てくる

貴 志
 上古栄谷、梅原の辺は紀の川の海口、水涯の地であった為岸といい、好字を用いて貴志と書 し荘名としたのであるが、その以前は薗部郷に属したらしい、慶長検地の時初めて貴志の荘名 起こった

 
 弘西の南東、西田井の東にあり、昔時紀の川の水災に会うて一時水中に没し、後河南の者が 開拓したので北村と呼んだのであろう

北牛町(職業)
 牛市が行われた町人町  小名 南北31k 東西49k

筒井洋和のイラスト 参考資料
角川地名大辞典
和歌山市史 和歌山県史人物編
紀州の伝説(角川書店)
紀州の民話
続風土記

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