かくれた歴史の発見 和歌山市編紀州の地名の由来6
地名は歴史の蓄積が醸し出す独自の色彩を伴っている
地名は無形の文化財

神 前
 もと神宮下郷の地で日前神宮の宮山の崎であるのでこの地名あり、又神埼とも書いた

神 波(地形)
 神波は薩長検地帳に阿波と書いている 神波は川辺の転語で昔時川辺の本郷であったので あろう

小雑賀
  もと海部雑賀荘に属す、元来雑賀荘の諸村は大概雑賀川以西にあったが、ひとりこの地の   み川東にあるのでこの名称がある

小瀬田
 安原区の東南隅に位し、海南市に界を接す もと多田郷の内で、安原ノ荘原の人がここに出作 りして一村を為し、当時付近の薬勝寺、仁井辺が瀬田ノ荘といったので、村名を小瀬田と称し  た

琴の浦
 神武天皇が東征の為上陸され「事」の起った「浦」

小人町(武士)
 御小人町(オコビト)町 仲間より少し上武士 殿様行列の折、長刀や槍を持って随従する武士 の居住地

木 枕(地形)
 地名「こまくら」の「こま」は籠りの転語、「くら」は谷の義であろうというが、木枕の名義詳らかで  ない

古 屋
 小屋とも書く 大字木ノ本の分村で、文明(1469〜)頃小屋掛けして住むもの聚落したのでこの 名がある 寛永中(1624〜)木ノ本村と分離し独立した村となる

雑 賀
 雑賀の地名最も古く、万葉集には左日鹿に作る

雑賀崎
 天正中(1573〜)本願寺教如上人織田勢に追われてこの地に逃れ、鷹ノ巣岩窟に身を潜めた ことがあり、雑賀党の鈴木孫一当所に城砦を築いてから泉州深日漁民の移住し来る者少なか らず、特徴ある純漁村を形成し、古来一本釣り漁業で有名である 大字に雑賀崎と田ノ浦があ る 田ノ浦はもと雑賀崎の枝郷で、一時分立したことあったが、正業民情が類似している為、明 治22年町村制実施の時再び合併して雑賀崎村を形成した

雑賀町(人名)
 雑賀屋長兵衛 和歌山随一の商家(木材と砂糖製造)の屋敷のあった所

雑賀屋町(人名)
 雑賀屋(安田)長兵衛(正保年間)の廻船問屋の豪商 小豆島で新田開発の功により城西側を 拝領し地名となる

雑賀屋丁東ノ丁
 城西側追廻し門前、南北に馬場が有り同心が住む武家地

境 原
 もと安原ノ荘で、山道ノ荘との界にあり山の原であったのでこの地名がある

栄 谷
 もと名草、海部ニ郡の界で境谷といったのを好字を用いて栄谷とした 又、坂井谷と書したこと もある


筒井洋和のイラスト 参考資料
角川地名大辞典
和歌山市史 和歌山県史人物編
紀州の伝説(角川書店)
紀州の民話
続風土記

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